Posted by : Unknown 2014年4月13日日曜日

 《会員エッセイ》


今だからこそ、言葉を紡ぐ


私には元来文才がなく、語彙力もありません。でも、感受性だけは強く、大人が何を求めているのかを瞬時に理解するような子供でした。だから、作文を書けば必ず入賞!「大人が褒めてくれる」言葉を探し当てるのが上手なだけでした。

語学、特に通訳の仕事をするようになってから、何度か新聞やTVのニュースに出ました。それは、全く自分の能力の証明にはなっていません。でも、メディアへの露出は「人が羨ましい」と思えるらしい別の私が一人歩きしていました。そして、「産業翻訳者」になった私は好奇心を頼りに言葉を探しました。「大人の顔色を伺う」訳でもなく、「誰かに褒めてもらう」訳でもなく、玉石混淆の情報から「以上でも以下でもない」言葉を必死に探しました。

それは、自分が自分に課した知的ゲームへの参戦であったかもしれません。

個人的なことですが、昨年末、8年間に及ぶ介護生活が終わりました。将来を担う子供を育てる生活とは違って、命の終末に向かう母親と24時間向き合うのは心身ともに疲弊しました。仕事も勉強も思うようには展開できず、どこかに絶望感があったように思います。

「これで、自分のことを考えられるね」と人から言われます。そうだ、これまで自分のことは二の次だったもの。でも、自分のことって、何?

むしろ、自分のことはどうでもよくなりました。引っ越し時の断捨離で、物欲も執着も手放したように思います。介護だって、解放されたというより、できるものならば1年くらいやり直したい。色んな意味で未熟だった自分を恥じています。

でも、命と向き合った8年間の間に医薬翻訳に出会いました。元々医療機器の翻訳をやっていたとはいえ、医薬と真剣に向き合おうと思えたのは、この8年間があったからです。
こんな私にも、いつも心配して寄り添ってくれる友人がいました。また、治験薬の投与を待つ複数疾患をかかえる重症患者さんとも友達になりましたが、何もしてあげられない自分の非力さに絶望しました。

「代受苦者」という仏教用語があります。本来自分が受けていたかもしれない痛みや苦しみを代わりに受けてくれている人々を指しているそうです。東日本大震災の犠牲者の方々はもちろん、不条理に生命を絶ち切られた人達のことを考えると、なぜ自分が生かされているのかを考えることがあります。

本当の私は随分と地味で、食べていければ大した欲もありません。能力的にも、できる仕事に限界があります。ただ、自分のことより人に喜んでもらうことが大好きな私は、「人のために生きる」ように導かれているようにも思います。翻訳で人の命は救えないけれども、医療ニーズに応じた医薬品や医療機器の創出の一助となるように、自分の想いを乗せた文章を書こう。誠実に、一字一句を大事にしよう。

「言葉を紡ぐ。」

執着を手放した今の私だからこそ、これまでとは違った翻訳をしてみようと思っています。まずは、そこから自己再生してみます。

akoron



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